圓 密 院 由 緒 書

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(仮名遣い、漢字などは原本に忠実に記してあります。)

人皇五十五代(にん)(みょう)天皇の御宇(ぎょう)()(しょう)二年(849)、茲に一人の()()(そく)在りて

(あざな)を正智と号す。距里二百歩にして楯の台なる地に方丈圓室を設け

守佛藥師の像を安置し二六時中に冥福を祈り退念無かりし時に慈覺大師

来たって錫を房中に留む。其夜夢想に藥師如来を感得す 佛告て曰く

此土は不動明王有縁の地なれば勧請すべきと髣髴として夢悟て其事由を

正智に語り玉いければ大いに喜び 即大師に念願す。大師其請求に應じ

不動の像を彫刻して以て正智に与え夫れより三七日(二十一日)

秘法を修し 郷里の信者を募り一宇を創造して以て山号寺号を附す。

慈覺大師十二代の法孫輦豪は碩徳の咒か者にして建久三年(1192

鎌倉公(源頼朝)鹿島社参の後 東条霞ヶ浦にて颶に遭遇し漂船して

茲地に拠り淹息せらるること数刻を移せども怒濤止まず。

之に依りて輦豪不動法を行じ祈願し閼伽水を以て湖中に灑ぎければ

立ちどころに浪音を絶し平坦なること宛も盤水の如く成りければ

(源頼朝)感称あって封禄五百貫寳剱一振木面等を献納拝謝せられて

終に霞ヶ浦を平穏に渡らせ玉うに依って茲に地名を浦渡村(ふっとむら)と号す。

后に改て古渡と云う。俗に鎌倉河岸と称する旧跡今に存在せり。

十七代什覚は貞和元年頃(1345)碩徳の高僧にて談義有りければ

上条下条一円の郷里人民帰向し日に増し月に倍して尽く(ことごとく)旦那となり

百家豪富 挙って談義所免許多(?)を寄附す弘法の功績莫大なる故

時の公方領主等の褒賜状田圃寄進状其外由緒書古文書類数十通

今に保蔵せり其后 什覚此地を轉じて上総国三途臺へ移住せしに

依て是邉にて當寺を長南の能化寺と唱ひたりと云う。

十八代覚叡 貞治年度(1362〜)坊敷を茲の地に移し大刹を再建し

秘蜜道場を開き 惠光院流相承一通 灌頂私記譲状一通 

両界許可以後口決一通 悉く什書に附傳し開檀の志願満足して

自らは、小野逢善寺へ越えられし事 古文書に曲なり

之より覺叡を中興の首祖となす十五代 祐海代 徳川家光公

慶安二年(1649)八月二十四日 舊禄を改制貶格の上 朱印書替ひ

高十一石一斗餘を下し賜る 十七代貞海代 延宝年度(1673)

上野信解院(寛永寺内)行海三十ヶ年間兼帯中 旧期由緒之れ有に由り

八ヶ年看坊の節 表色衣許容加之のみならず中古まで聞識のコ者は

代々大僧都に累僊せし僧 少なからず後世慈眼大師(天海)不動院に

在住せられしより其院の末に屬し臈分となる。

往古法相宗なり當寺の什譜古文書類 常陸国史常陸文誌(常陸志料)

関城繹史(常陸志料) 郡郷考等の群書に著るしき 重宝古文書旧記

総て多は 信太小太郎 浮島彈正 阿波崎神宮寺の諸城塁没落の時

しばしば戦場となり連累兵(せん)に遭遇し之れか為にかいじんとなり

世代相承不詳 慈覚大師嘉祥二年開基より当明治十二年まで

千三十一年世代七十九世 良円承安元年より當明治十二年まで

七百十九年世代相承不詳中興覚叡貞治元年より本年まで五百十六年

世代二十六世なり。 

明治十二年一月十九日書 常陸国信太郡古渡村
東光山明王寺円密院 當職七十九世權少講義 雪草廣循  浅野新民謹書